はまゆり(釜石市の花)

はまゆりの花

はまゆりの花

 釜石市の花「はまゆり」は,平成50年に制定されました。
 昭和30年に旧釜石市と甲子村,鵜住居村,栗橋村,唐丹村が合併して新しい釜石市になって20年になったことから,釜石市民憲章制定に合わせて木(タブノキ)や鳥(オオミズナギドリ)と一緒に制定されたものです。

釜石市のシンボル・市民歌(釜石市ホームページ)http://www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/10,0,76,303,html

 当時の「広報かまいし」には,次のように紹介されています。

 はまゆりは,ユリ科の多年生草木で,日本の中部から北部の海岸や崖などに自生していますが,古くから栽培もされて園芸品種もたくさんあります。
 7月ごろから茎の頂に1~3個の花をつけますが,青い海と空とを背景に咲く姿はとてもすばらしいものです。
 咲く期間がちょうど海水浴シーズンに当たるので,波の打ち寄せる岩場にたくましくも可憐に咲く姿を御覧になった人も多いでしょう。
 花弁の間がすいているので【すかしゆり】というのが正式名ですが,当地方では一般に「はまゆり」と呼ばれ親しまれています。市の花としてはこの俗称「はまゆり」を使うことになりました。

「はまゆり」を探して
 子供のころ,はまゆりを意識して見たことはありませんでした。
 昨年の7月釜石サテライトに赴任し,釜石市の花が「はまゆり」であることを知ってから,はまゆりを探して釜石湾内を歩きましたが,波の打ち寄せる岩場には船でないと近づけないので,半ばあきらめていました。しかし,ある日尾崎半島の裏側の小さな漁村に行ってみると,港に大きな岩がありその岩肌にそれらしいユリの茎がありました。
 1年経って今年の夏に行ってみると,オレンジ色の花がたくさん咲いていました。

へび岩

へび岩

 はまゆりは,「へび岩」と呼ばれるヘビのうろこのような模様のある大きな岩の隙間に,しっかりと根を張って咲いていました。
 この地域は,昔は伊達と南部の藩境で,「歴史の道第2号(浜街道)(釜石市教育委員会編集)」には『ここは古人の里。ここの住民は両国藩境の生き証人であり,南部藩境守護人-防人であった』と記されるほど,釜石郷の辺境の地です。

ヘビ岩の縞模様(実は地層のすじ)

ヘビ岩の縞模様(実は地層のすじ)

津波の被害の甚大な浜

津波の被害の甚大な浜

尾崎の浜の朝

尾崎の浜の朝

浜の夕焼け

浜の夕焼け

釜石サテライト及び三陸水産研究センターの開所式開催

 5月11日土曜日,釜石サテライト及び三陸水産研究センターの開所式が開催されました。
 開所式には,文部科学省文教施設企画部,復興庁岩手復興局,岩手県,釜石市を始めとする岩手県沿岸復興期成同盟会の各市町村,県内漁業関連組合,東京海洋大学並びに北里大学及び同日に開所式を開催した釜石・大槌地域産業育成センターなどから,多くの関係者が集まりました。
 当日は,未明からのあいにくの雨模様で,玄関前で予定していたテープカットも急きょラウンジで行うことになり,狭い中での開所式となりました。
 式典に先立ち,3月11日の月命日として犠牲者に対し黙祷が捧げられました。
 引き続き,藤井学長からの式辞,文部科学省文教施設企画部長,岩手県知事及び釜石市長からの祝辞があり,沿岸復興期成同盟会の各市町村長や東京海洋大学長,北里大学長らが加わってテープカットが行われました。

挨拶する藤井岩手大学長

テープカット

愛媛大学南予水産研究センター長山内晧平教授による記念講演会

記念講演会
 開所式後,サテライトのセミナー室で記念講演会が行われ,愛媛大学南予水産研究センター長山内晧平教授(岩手大学三陸復興推進機構客員教授)から「東日本大震災の創造的復興に向けて-岩手大学三陸水産研究センターに期待する」と題し,岩手大学三陸水産研究センターが全国の水産系研究者の中核となってその力を集結し,水産教育研究の拠点を形成することにより,三陸地域の水産業や漁村の復興・発展に貢献すること,さらに新しい水産業のモデル作りの先導的役割を果たすことを期待するとのお話がありました。

 その後,施設内の見学のあと,祝賀会が開かれました。

祝賀会の様子

祝賀会
 祝賀会は,同日に開所式を開催した釜石・大槌地域産業育成センターの祝賀会も兼ねて行われ,総勢180名ほどが参加しました。
 主催者の岩手大学長からは,多数の方が参加していただいたことへの御礼,三陸地域の復興と今後の発展に尽力したいとの言葉が述べられました。
 釜石・大槌地域産業育成センター理事長の野田釜石市長からの挨拶で,地域の名称の「平田」は一説に,「閉伊郡」を治めた「閉伊頼基」が由来であるとの紹介がありました(「閉伊頼基」は尾崎神社(2012年12月30日の記事)で紹介)。

 祝賀会のアトラクションとして,地元「平田青虎会」の皆さんによる平田虎舞の躍動感あふれる演舞があり,新しいセンターの門出を盛り上げてくれました。

施設見学の様子

パネル展示

研究員が展示を説明

外ではワンニャン号など支援いただいた車両も展示

釜石名物「キッチンカー」もお出まし

尾崎神社

初めての初詣は,尾崎神社でした。
小学校5年生の時に,姉とその友達に連れられて行きました。
当時は,初詣用の臨時バスも運行していなかったので,上中島町の社宅から神社までの3,4キロを徒歩で移動しました。

里宮

尾崎神社 初詣に行ったのは魚市場のある浜町の尾崎神社で,パンフレットによるとこの社殿は,「里宮」と呼ばれ,元禄12年(1699年)に当時の豪商佐野家が東前の邸内に設けた御旅所(お祭りの際に本宮から迎えた御神輿を一時休ませるところ)が始まりで,その後,拝殿として現在の市営ビル付近に遷宮され,多くの町民が参拝したようです。しかし,昭和8年(1933年)の三陸大津波で流出し,昭和10年(1835年)高畑山に一時移されていましたが,昭和27年(1952年)に現在の谷沿いの地に遷宮されたものです。大木,巨岩が自然のまま残されています。

尾崎神社境内

尾崎神社境内

尾崎神社参道

尾崎神社の鳥居と参道

曳き船祭り

曳き船祭り

虎舞

釜石まつりの虎舞

尾崎半島の尾崎神社

 尾崎神社は,ほかに三つ,釜石湾対岸の尾崎半島側に本宮(尾崎白浜),奥宮(青出浜),奥の院(さらに奥)があります。
尾崎半島は,釜石湾の南側にあり,平田地区の東側になります。

「本宮」

尾崎神社(本宮)

尾崎神社(本宮)

 「本宮(もとみや)」は,平田地区から車で10分ほどの,尾崎白浜地区の小高い山の上にあります。鳥居をくぐり参道の階段を上ると,平田漁港と青い釜石湾,対岸の浜町などが見えます。
境内に入ると,掃除をしている女性がいましたので,ちょっと話を聞いてみました。
奥宮には,ほとんどは船で行く。自動車道はなく,徒歩だと山を2回ぐらい越え30分ぐらいかかる。奥の院はそこからさらに20分ぐらいかかる,とのことでした。この本宮について聞きましたら,昔はお寺も兼ねていたとのことです。さらに女性は,昔の津波(明治29年(1896年)か昭和8年(1933年)か)で曾祖父以外家族全員が津波で流された。曾祖父はたまたま盛岡に仕事に行っていたので助かった。ようやく私の息子が神社の宮司になった。家系は400年くらい続いている。本宮も昔は平地にあったが津波に流されてしまい,この高台に建ててもらった,とおっしゃった(予想外のことを話されたので,驚きました。)。

尾崎神社(本宮)の鳥居

尾崎神社(本宮)の鳥居

尾崎白浜漁港

尾崎白浜漁港(本宮から)

「奥宮」

尾崎神社(奥宮)

尾崎神社(奥宮)

 奥宮は,尾崎白浜から大きな山を二つ,小さな山を最後に一つ越えて30分ぐらいかけて着きました。最初の山がきつく,その峠を越えるとうっそうとしたスギ林が続きます。
奥宮の下には,青出浜(あおだしはま)があります。祭りの際には,里宮にある御神輿をこの浜に船で持ってきて,奥宮の御神体をお神輿に渡し,里宮に移します。浜からも湾の対岸が見え,また,右手には,太刀根(たちがね)島から延びる湾口防波堤も見えます。
奥宮は,承久2年(1220年)の創建で,閉伊三郎源頼基が葬られているとされています。

奥宮解説板

奥宮解説板

尾崎半島案内図

尾崎半島案内図

青出浜

青出浜(桟橋先端から奥宮方面)

太刀根島と北堤

太刀根島と北堤

「奥の院」

尾崎神社(奥の院)

尾崎神社(奥の院)

奥の院は,奥宮から緩やかに上り,半島の最高峰の山を太平洋側に回り込んでしばらく進むと20分ぐらいで着きます。峰上からは,三貫島や箱崎半島が見えます。峰下は,200mほどの断崖絶壁です。
解説板には「社のないお宮で,日本武尊を祀り,御神体は宝剣といわている」と書かれています。たしかに,建物はなく,石の玉垣がめぐらされているだけです。
神社のパンフレットによると,これも元禄年間に佐野家が奥行き3間幅5間のものを江戸で作らせ,船で運んで造成したものです。
奥の院は,1600年ほど前に創建されたとのいわれです。

尾崎神社奥の院がまつられている尾崎半島は,簡単に足を運べるところではなく,とても神秘的なところでした。曳き船祭りなどの文化を含め,このまま後世に残していきたいところです。

これで今年の参拝納めです。
よいお年をお迎えください。

奥の院の御神体

奥の院の御神体

三貫島

三貫島

太刀根島が見える

太刀根島と釜石湾が見える

尾崎半島最高地点の木々

尾崎半島最高地点の木々(岩盤に張った根がすごい)

日本武尊と閉伊三郎源頼基

 いわれによると,日本武尊が日本全国を平定した際に,最後に日高見の国を鎮圧し,その帰りに尾崎半島に立ち寄り,その証として剣を立てたとのことです。奥の院の御神体として,石を貫く剣がまつられています。

 尾崎神社にまつられている「閉伊三郎源頼基」は,弓の名人鎮西八郎源為朝の三男,元の名は為頼で,伊豆大島から7人の侍と共に脱出し,尾崎半島に流れ住んだといわれています。源頼朝の時代になり,佐々木四郎高綱の娘音羽姫を妻として閉伊郡海岸部の押領使となり,名君の誉れの高かった方といわれています(本陣は,宮古市花輪根城)。
承久2年(1220年)に63歳で卒しますが,尾崎神社に葬るよう遺言を残しました。頼基の弟「天授院賢海」が遺体を船で運び尾崎神社の宝剣の近くに葬りました(途中嵐に遭い,船越半島田の浜の荒神社に難を逃れたという。荒神社にも頼基の霊廟がある。)。弟は,そのまま尾崎白浜に住みつき,代々別当家を継いでいるとのことです。

 大河ドラマ「平清盛」では,父の源為朝は,「橋本さとし」が演じていました(機動戦士ガンダム風)。源為義(小日向文世)の第8子で源義朝(玉木宏)の弟にあたります。頼基は,源頼朝(岡田将生)や義経(神木隆之介)とはいとこ同士になります。