ヤングリーダーズ国際合宿研修

2月18日(火),国際交流科目「ヤングリーダーズ国際合宿研修」の一環で,受講生30名ほどが釜石市を視察に訪れました。
この研修は,「震災からの復興と持続可能な社会-震災と復興を発信するために-」をテーマに掲げ,震災とその後の被災地の現状を知り,復興ツーリズムを通して復興事業を体験し,これらから得たものを多文化チームで検討し,国際的な多様な視点から見た「震災と復興」の発信方法について提案を考えることを内容としたものです。
これらの活動を通して,文化や言語の違いを越え,地域課題を国際的な視野,立場から捉え,発信する能力を高めることを目的に行われ,国際交流協定を締結している各国の留学生や,これから留学を予定している日本人学生が参加しました。
受講生は,あらかじめ国立岩手山青少年交流の家(滝沢市)でオリエンテーションや被災地を知るための講義を受け,17日(月)に釜石入りして被災地の現状についての講話を受けました。

18日の午前には,2班に分かれて,根浜海岸清掃のボランティア活動と,根浜漁港でホタテの出荷作業の体験実習を行いました。
出荷作業の体験実習は,まず,雪上で貝殻に付いたゴミや雑貝などをナタでこそぎ取り,次に仮設作業場に入って,へらで貝を開ける作業を行いました。漁業体験は誰もが初めてで,最初は恐る恐るやっていましたがだんだん慣れてきて手際よくできるようになりました。
最後に,剥き取ったナマの貝柱を試食しました。これも初めての体験で,恐る恐る口に入れていましたが,自分で剥いた甘みのある貝柱においしいと喜んでいました。

根浜海岸の清掃作業

根浜海岸の清掃作業

ホタテ貝殻の出荷作業

ホタテ貝殻の出荷作業

ホタテの殻開け

ホタテ殻開け

ホタテ試食の初体験

ホタテ試食の初体験

午後には,水産加工会社の津田商店の視察を行いました。
津田商店は,大槌町で事業を行っていましたが東日本大震災の津波に被災し,1年後にようやく鵜住居町で事業を再開した会社です。徹底した『安心品質』の食品造りに努めており,サバやサンマ,アジ,サケなどの缶詰やレトルト食品,冷凍食品を製造・販売し,また,学校給食への食材の提供も行っています。
工場内は,徹底した衛生管理が行われており,見学用の帽子,マスク,白衣,長靴が配給されました。加工室に入る際は,エアシャワーと手洗い,消毒・殺菌,長靴の洗浄をしなければなりませんでした。
見学のあと職員との交流会が行われ,被災からの復興までの苦労話や骨付きの理由,衛生管理,材料の品質管理,取引先など,多くの質問が出され,関心の深さがうかがえました。

水産加工場の視察

水産加工場の視察

水産加工会社職員との交流

水産加工会社職員との交流

受講生は,翌日また国立岩手山青少年交流の家に戻り,研修の成果のまとめと発表会などを行うことになっています。

浜辺の歌

昔のことぞ,しのばるる(浜辺の歌の思い出)

小学校から愛用のリコーダーで吹いてみました。

 この歌は,中学校3年生の夏の時期に,音楽の時間で学習しました。
 林古渓作詞,成田為三作曲で,日本歌唱の中で一番親しまれている歌です。
 ピアノ伴奏は,分散和音になっており,波の寄せ返しを表現しています。音楽室から流れてきた石川先生の演奏が懐かしい。
 当時は文語調の歌詞のため意味がよく分からなかったのですが,歳を重ねるにしたがって思い出も多くなり,この歌のすばらしさが分かるようになってきました。
[audio:http://sanriku.adm.iwate-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2013/09/f005d288d8e3ea79a58aa2f9423d0c66.mp3|titles=浜辺の歌|loop=yes]

浜辺の歌音楽館

 作曲家成田為三(1893(M26)-1945(S20))は,秋田県米内沢町(現在の北秋田市米内沢)出身で,東京音楽学校在学中にこの曲を作りました。
 米内沢は,秋田県の内陸部なのですが,作曲に当たり近くを流れる阿仁川のせせらぎをイメージしたとも言われています。
 阿仁川のほとりには,浜辺の歌音楽館があります。浜べの歌をピアノで自動演奏する成田為三に似たロボットがあります。

昔のひとぞ,しのばるる(根浜海岸の思い出)

白砂青松百選に入っていた浜でしたが,浜の北側は大きく地震で沈下し,浜がなくなってしまいました。

 中妻小学校の4年生から6年生まで同じ学級で,あるきっかけで親しくなり,その後高校3年生まで一緒に遊んだ無二の親友がいました。

 特に釜石第二中学校在学中は,放課後や休日には必ず一緒にいて,本屋のハシゴをしたり,上中島社宅の公園で遊んだり,山に入ったり,海に行ったり,絵を描いたりしていました。
 また,将棋や五目並べをしたり,光や重力について議論したり,文通したり,成績を競い合ったりもしていました。
 親友は,スポーツマンで新設のサッカー部に所属していました。逆に私は,体が小さく細かったためスポーツが嫌いで,絵や音楽が好きだったので美術クラブや合唱団に所属していました。

朝浜べをさまよえば…

 当時釜石では,昭和45年開催の岩手国体に合わせて道路や体育施設などが整備されてきました。国道45号の鳥谷坂(とやさか)トンネルも,国体開催前年の春先(中学2年生の春休み時期)に開通しました。親友と,未舗装で砂ぼこりとスモッグに煙るトンネルを自転車で走り抜け,両石の「恋の峠」も越え,鵜住居の根浜海岸や大槌まで行ってみたものでした。
 中学3年生の夏休みには,天気が良い日はほとんど毎日親友と一緒に,大平の市民プールや根浜海岸に泳ぎに行きました。おかげで,泳ぐことが好きになり,少しずつ体力が付いていきました。

 とても仲の良い二人でしたが,高校進学は別々になってしまいました。彼は釜石工業高等学校に,私は釜石南高等学校に進みました。
 高校生になってそれぞれ新しい友達ができたり,学校行事で忙しかったりして,普段会うことが少なくなり,たまに手紙をやり取りするぐらいになってしまいました。
 それでも夏休みになると,以前のように海に一緒に行きました。2年生の時はキャンプにも行きました(ブログ「春の海2-弁天島海岸の思い出」)

林の陰にレストハウスがありましたが,被災し撤去されました。

 高校3年生の夏休み,親友はアルバイトや学校の友達とのキャンプなどで忙しかったようでした。源太沢の上流にある親友の家に何度か誘いに行ったのですが,親友の母が申し訳なさそうに謝ってくれました。
 翌日,初めて一人で根浜海岸に出かけました。堤防の上を歩き,これまで一緒に来てくれた親友の姿を探す自分に,親友は私よりも早く大人になったのだ,自分はまだ子供なのだということを悟り,寂しさを感じました。
 この年の夏,一度だけ親友と根浜海岸に行くことができました。しかし,渚に立ち互いの進路を話し合ったただけで,昔のように砂で遊んではしゃいだり,沖まで泳いだりすることもなく,時間がたそがれてゆきました。この時,小学校のころから親友と一緒に見ていた幼い夢は,根浜海岸で作って遊んだ砂の城のようにはかなく消えていきました。
 親友とは翌年年賀状のやり取りをしただけで,高校卒業後は会うことはありませんでした。

 根浜海岸には,盆帰りした時などに必ず泳ぎに来ていました。そして,あの時のように堤防の上を歩き,親友の姿を探しているのでした。
 源太沢にあった親友の家は,いつしかなくなっていました。