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釜石サテライトから見る朝日
釜石湾から昇る春の朝日を釜石サテライト(釜石市教育センター5階)から撮影しました。
秋の朝日は,2012年10月26日に掲載した記事「2012/10/22 5:53 103.7°」を御覧ください。
これが見納めです。
板澤武雄博士の碑
薬師公園の上り坂の途中に,こんな石碑(平成2年釜石市設置)があります。
「かわりゆく 我がふる里の ふるごとを 伝えおかばや 後の世のため」
この歌は,板沢武雄文学博士が自分のふる里である釜石の歴史のことを思って詠んだ歌の中の一首です。
板澤武雄博士は,釜石出身の歴史学者で,明治28年1月に父板澤真小雄,母喜智の5男として生まれました。遠野中学,仙台第二高等学校,東京帝国大学国文学科を卒業し,学習院教授,東京大学文学部教授,法政大学文学部教授を歴任しました。我が国蘭学史の権威者です。昭和37年7月15日67歳で生涯を閉じました。(碑文から)
薬師公園part2
(part1は,2012/10/22 5:53 103.7°の「朝早く起きたついでに,薬師公園に行ってみました。」にあります。)
これは,よく「不発弾」に間違われるようですが,日清・日露戦争での戦死者を弔うため,この公園に大正11年に建てられた忠魂碑の塔の部分で,鉄で砲弾の形に作り,台座の上に建てられていたものです。
昭和20年8月9日は,長崎に原子爆弾が落とされた日ですが,同じ日に釜石では惨状が起きました。釜石に製鉄所があったため,艦砲射撃を受けたのです。7月14日にもあったのですが,この日はさらに激しく,製鉄所が壊滅的に破壊され,小佐野町などの社宅も攻撃されて釜石の町はほとんど焼け野原となり,多くの犠牲者が出ました。高射砲隊が応戦した薬師公園も標的になり,忠魂碑は破壊されてしまいました。
その後,製鐵所は市民の復興への意欲から復旧が進み,3年後に操業が再開されました。薬師公園には,戦死者・戦災者の慰霊と釜石の永遠の平和を祈念するため,昭和29年に平和像が建立されました。
薬師公園は,津波避難場所になっており,東日本大震災の津波の際にも多くの市民が避難したようです。今,眼下の大町は,がれきはすでに整理され,更地の土地もありますが,改修が済み利用を再開した建物,建て替えが始まった建物など,少しずつ復旧しています。
釜石の町は,幾度も津波に襲われ,艦砲射撃に会いながらも,屈せずたゆまず,そのつど市民が立ち上がり,復興してきました。
2012/10/22 5:53 103.7°
釜石市教育センター5階にある釜石サテライトは,周囲から一段と高く,周りを見渡せます。
しかし,釜石湾方向には高いビルが2棟あり,海は,このわずかな隙間からしか見えません。
このビルの隙間からの日の出を見てみたくなり,国立天文台の暦計算表と地図と分度器で調べてみると,10月20日から25日当たりになっていました。
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何日か挑戦し,22日の朝,ようやく見ることができました。
ちなみに,タイトルは,2012年10月22日の盛岡市での日の出の時刻と方角で,釜石市での実際とは若干異なります。
朝早く起きたついでに,薬師公園に行ってみました。
この公園は,大町の北側の高台にあって市街が一望でき,春には桜が咲いて花見客で賑わいました。小学校1年生の時に遠足で来たのが最初です。