釜石高等学校理数科課題研究発表会

1月22日,岩手県立釜石高等学校において「理数科課題研究発表会」が行われ,母校生徒のがんばっている姿を拝見することができました。
釜石高等学校は,平成24年度にスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受け,「校内外での科学に関する取り組みを通じて,論理的思考力と表現力(英語活用力を含む)を養い,国際的に活躍する優れた科学技術人材を育成すること」を目的として事業に取り組んでいます。
今回の発表会は,10月の中間発表を受けてさらに発展させた研究の最終まとめとして行われ,下記の7テーマの研究発表が行われました。

  1. シロツメクサの三つ葉と四つ葉の違いに関する研究
  2. 果実に含まれる酵母菌の研究
  3. 色素増感型太陽電池の起電力に関する研究
  4. 甲子川の水質調査に関する研究
  5. 摩擦と湿度の関係について
  6. 甲子川の深成岩転石の分類に関して
  7. 線形計画法による最適な生産計画の研究

どれもがすばらしい研究内容でしたので,審査員として点数付けしなければならないことに大変心が苦しく感じられました。
7名の審査員による厳正な審査の結果,1.シロツメクサの三つ葉と四つ葉の違いに関する研究6.甲子川の深成岩転石の分類に関してが岩手県高等学校理数科発表会への参加グループに選考されました。

四つ葉のクローバーの研究発表

四つ葉のクローバーの研究発表

四つ葉のクローバーの研究では,シロツメクサの三つ葉と四つ葉の違いを,形態的要因(維管束の観察)と遺伝的要因(DNA分析)で分析が行われました。維管束の観察では,葉柄の維管束が基本5本のところを葉に近づくにつれて再配分が行われ葉の数(四つ葉であれば4本)に分岐することが示されました。しかし,DNA分析では,大きな違いが見られなかったことから,RNAやタンパク質を調べたいと今後の課題としました。
甲子川の深成岩の分類では,甲子川から採集した岩石を色指数,密度,顕微鏡観察により,北上山地を特徴づける4種類の深成岩(花崗閃緑岩,花崗岩,はんれい岩,斜長石はん岩)に分類する過程が報告されました。さまざまな地質が見られる釜石が,ジオサイトとしての価値を有していることを知るよい資料になっていました。

母校の皆さんが,さらに研究に励み,課題を見つけて解決していく力を着け,社会で活躍できる人材に育ってくれるよう期待したいと思います。

インディ・ジョーンズ in 釜石鉱山

 8月に釜石鉱山の坑道見学会がありましたので,参加してみました。

 今から約300年前の享保12(1727)年,盛岡藩出身の本草学者「阿部友乃進(とものしん)」が仙人峠で磁鉄鉱を発見しました。
 130年後の1857(安政4)年に,大島高任が大橋に洋式高炉を建設し,12月1日(鉄の記念日)に日本初の高炉法による連続出鉱に成功しました。
 釜石鉱山の歴史の始まりです(詳しくはページ下のリンク先サイトを御覧ください)。

 釜石南高等学校1年時の担任は地学の吉丸先生でした(今でも健在とのこと)。独特な語り口で有名で,授業中は落語を聞いているようで楽しく,一生懸命勉強しました。
 教科書の「鉱床のできかた」の単元では,「スカルン」という言葉が出てきました。石灰岩にマグマが接触し,マグマに含まれる成分が石灰岩と反応してできた鉱物は「スカルン」と呼ばれています。

 旧釜石鉱山事務所に掲示してある解説板には,「マグマ(白亜紀花崗岩)が石灰岩を含む中・古生代の地層に陥入してできた釜石鉱山は,鉄鉱石を算出する日本最大のスカルン型鉱床である」と書かれており,一度鉱山の中を見てみたいと思っていたところでした。

乗車したトロッコと坑口

乗車したトロッコと坑口

 見学会は,釜石市が小学生以上の市民向けに企画したもので,夏休み期間中に数回開催されていました。
 場所は,釜石市甲子町大橋で旧国道仙人トンネルの手前にあります。テレビやラジオの電波が届かない所で,まして携帯電話は「バリ0」です。磁鉄鉱の影響で方向感覚が狂うかも知れません。

 スタートは,「550m坑道」入口で,電気式トロッコ列車に乗り,坑口から約3km,20分ぐらいかかって「仙人秘水」の源泉に到着しました。
 ここは,北上高地の大峰山(標高1147m)山頂から600mの真下です。
 坑内は,温度がセ氏10度,湿度90%で,肌寒いくらいでした。壁は,堅い花崗岩(マグマが深い所で固まった岩石)です。

目指すは,未知の世界

目指すは,未知の世界

鉱脈の案内図

鉱脈の案内図

 釜石鉱山の説明のあと,またトロッコに乗り,一度バックして,途中のポイントで切り替わり,また前進して別の線を走り,採掘坑に着きました。

 ここでは,産出される鉱石の説明と,鉄鉱石の採掘方法の説明がありました。
 鉱石は主なもので,鉄鉱石(磁鉄鉱),柘榴石(ざくろいし,ガーネット),白色石灰岩などです。石榴石と鉄鉱石は,ゆで卵の白身と黄身の関係で,白身に当たる石榴石があると掘り進んでいけば必ず鉄鉱石が見つかるそうです。

電気石,褐鉄鉱と石榴石,白色石灰岩

石榴石,褐鉄鉱と電気石,白色石灰岩


 そのあと,横坑の掘削の方法の説明がありました。まず,写真「横坑の掘削」の右側の坑奧の面の円の中にハッパを差し込んで火を着け,爆破します。その後機関銃のような削岩機や砲身の長い大砲のような大型削岩機で砕き,ショベルローダのようなタイヤ着きの車でトロッコまで運びます。
 次に縦坑の掘削方法の説明でした。縦坑に足場を組み,縦三つに区切って1区画ずつハッパで砕いていく「三区画切上」という方法の説明がありました。

横坑の掘削

横坑の掘削

縦坑の掘削「三区画切上」

縦坑の掘削「三区画切上」

グラニット・ホール

グラニット・ホール

 最後は,作業員の休憩所だった広間に行き,その奧の「花崗岩場音響実験室(グラニット・ホール)」でレコード鑑賞をしました。
 この空間は,吸音率が低くて残響が長く残るため,コンサートなどにも使われています。
 歌などを披露すれば,珍しい石がもらえるようです。
 今度挑戦してみよう。

釜石鉱山の紹介(釜石鉱山ホームページから)→http://www.sennin-hisui.com/kozan/index.html
旧釜石鉱山事務所(釜石市郷土資料館ホームページから)→http://www.city.kamaishi.iwate.jp/kyoudo/kouzan/kouzan.html(現在閉館中です)

浜辺の歌

昔のことぞ,しのばるる(浜辺の歌の思い出)

小学校から愛用のリコーダーで吹いてみました。

 この歌は,中学校3年生の夏の時期に,音楽の時間で学習しました。
 林古渓作詞,成田為三作曲で,日本歌唱の中で一番親しまれている歌です。
 ピアノ伴奏は,分散和音になっており,波の寄せ返しを表現しています。音楽室から流れてきた石川先生の演奏が懐かしい。
 当時は文語調の歌詞のため意味がよく分からなかったのですが,歳を重ねるにしたがって思い出も多くなり,この歌のすばらしさが分かるようになってきました。
[audio:http://sanriku.adm.iwate-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2013/09/f005d288d8e3ea79a58aa2f9423d0c66.mp3|titles=浜辺の歌|loop=yes]

浜辺の歌音楽館

 作曲家成田為三(1893(M26)-1945(S20))は,秋田県米内沢町(現在の北秋田市米内沢)出身で,東京音楽学校在学中にこの曲を作りました。
 米内沢は,秋田県の内陸部なのですが,作曲に当たり近くを流れる阿仁川のせせらぎをイメージしたとも言われています。
 阿仁川のほとりには,浜辺の歌音楽館があります。浜べの歌をピアノで自動演奏する成田為三に似たロボットがあります。

昔のひとぞ,しのばるる(根浜海岸の思い出)

白砂青松百選に入っていた浜でしたが,浜の北側は大きく地震で沈下し,浜がなくなってしまいました。

 中妻小学校の4年生から6年生まで同じ学級で,あるきっかけで親しくなり,その後高校3年生まで一緒に遊んだ無二の親友がいました。

 特に釜石第二中学校在学中は,放課後や休日には必ず一緒にいて,本屋のハシゴをしたり,上中島社宅の公園で遊んだり,山に入ったり,海に行ったり,絵を描いたりしていました。
 また,将棋や五目並べをしたり,光や重力について議論したり,文通したり,成績を競い合ったりもしていました。
 親友は,スポーツマンで新設のサッカー部に所属していました。逆に私は,体が小さく細かったためスポーツが嫌いで,絵や音楽が好きだったので美術クラブや合唱団に所属していました。

朝浜べをさまよえば…

 当時釜石では,昭和45年開催の岩手国体に合わせて道路や体育施設などが整備されてきました。国道45号の鳥谷坂(とやさか)トンネルも,国体開催前年の春先(中学2年生の春休み時期)に開通しました。親友と,未舗装で砂ぼこりとスモッグに煙るトンネルを自転車で走り抜け,両石の「恋の峠」も越え,鵜住居の根浜海岸や大槌まで行ってみたものでした。
 中学3年生の夏休みには,天気が良い日はほとんど毎日親友と一緒に,大平の市民プールや根浜海岸に泳ぎに行きました。おかげで,泳ぐことが好きになり,少しずつ体力が付いていきました。

 とても仲の良い二人でしたが,高校進学は別々になってしまいました。彼は釜石工業高等学校に,私は釜石南高等学校に進みました。
 高校生になってそれぞれ新しい友達ができたり,学校行事で忙しかったりして,普段会うことが少なくなり,たまに手紙をやり取りするぐらいになってしまいました。
 それでも夏休みになると,以前のように海に一緒に行きました。2年生の時はキャンプにも行きました(ブログ「春の海2-弁天島海岸の思い出」)

林の陰にレストハウスがありましたが,被災し撤去されました。

 高校3年生の夏休み,親友はアルバイトや学校の友達とのキャンプなどで忙しかったようでした。源太沢の上流にある親友の家に何度か誘いに行ったのですが,親友の母が申し訳なさそうに謝ってくれました。
 翌日,初めて一人で根浜海岸に出かけました。堤防の上を歩き,これまで一緒に来てくれた親友の姿を探す自分に,親友は私よりも早く大人になったのだ,自分はまだ子供なのだということを悟り,寂しさを感じました。
 この年の夏,一度だけ親友と根浜海岸に行くことができました。しかし,渚に立ち互いの進路を話し合ったただけで,昔のように砂で遊んではしゃいだり,沖まで泳いだりすることもなく,時間がたそがれてゆきました。この時,小学校のころから親友と一緒に見ていた幼い夢は,根浜海岸で作って遊んだ砂の城のようにはかなく消えていきました。
 親友とは翌年年賀状のやり取りをしただけで,高校卒業後は会うことはありませんでした。

 根浜海岸には,盆帰りした時などに必ず泳ぎに来ていました。そして,あの時のように堤防の上を歩き,親友の姿を探しているのでした。
 源太沢にあった親友の家は,いつしかなくなっていました。

釜南生徒会誌「新汐」復刊第1号

 昭和47年(1972年)3月1日,釜石南高等学校生徒会誌「新汐(にいじお)」復刊第1号が発行されました。同年3月7日の卒業式に間に合わせるように急いで編集され,その年の卒業生を含む全校の生徒,教職員に配付されました。40年も前のものですが,故あって大切に持っていたものです。
 表紙は,美術科の高杉先生が図案したもので,「青い円は,新しい汐(うしお)がわき上がってくる様を表現した」と言って,油絵具の匂いのする美術準備室で原画を渡してくれました。
 ページをめくると,斉藤校長の「ソクラテス曰く,『汝自身を知れ』と。」で始まる巻頭言,加藤教頭からの「復刊を祝う」と題した祝辞があります。
 続いて,新旧生徒会長のあいさつ,教員の「私の高校生時代」,教員や生徒による随筆,生徒会やクラブ,クラスの紹介,生徒たちによる写真やイラストもあり,52ページしかない薄い印刷物ですが,もりだくさんの内容でした。当時の校風や生徒たちの気質,取り巻く社会情勢なども理解できる冊子であると思います。
 しかし,加藤教頭が,23年ぶりの発刊について「折角ともした火を燃やし続ける意欲を,後に関係してゆく人たちに植え付けてほしい」と締めくくった祝辞で,『創業は易く,守成は難し』という古いことばを引用し,続けることの難しさを説いていましたが,誰もがそのことばをよくかみしめることなく,翌年の卒業時に第2号をもらうことはありませんでした。

当時の校舎(裏側)と甲子川
校歌は,現釜石高等学校に引き継がれている

 1988年に発行された「釜南70年史」に以下のように記されているように,その後復刊第2号も発刊されているようですが,復刊第1号はどこにも誰にも保管されている様子はなく,これが現存する最後の1冊かも知れません。


『ところで,昭和47年度には,生徒会誌『新汐』が創刊号として発行された。創立50周年記念回顧座談会「釜南五十年雛の日記」によれば,昭和23年3月に,県立釜石中学校の生徒会誌『あゆみ』,さらに,25年7月に,県立釜石高校の『新汐』が発行されたことになっている。つまり,47年に出た『新汐』は,正式には,「復刊第1号」ということになるだろう。現在,学校には「復刊第2号」からしか残されていない。昭和26年から46年までの生徒会誌の事情については不明である。』

海の見える町 その3「雪明りの路」

 今年の冬休みもすでに明け,大学入試センター試験も終わり,1月の末を迎えるころになりました。私の高校1年生の冬休みもあっという間に過ぎました。正月明けの1週間まるまるハムの講習会があったため,冬休みの後半はそれだけに費やされ,たくさん出された宿題は全部消化することができませんでした。

 伊藤整は,小樽高等商業学校を卒業した後,小樽市立中学校の英語教師になります。そこで教員生活を送りながら,汽車通学で知り合った少女との恋愛をもとにした詩集「雪明りの路」を自費出版します。そして,詩人として名声を得,たくさんの若い詩人と出会います。詩集に対して美文的賛辞をもらった高村光太郎や,「春と修羅」を出版した宮澤賢治のエピソードが小説「若い詩人の肖像」に書かれています。そして,猛勉強をして東京商科大学(現一橋大学)に合格し,1年後に小樽を離れます。伊藤整は,このころを自分の人生の一番幸福な時期だったと振り返り,「柔らかい光のさす春の草野を,まぶしさに眉をひそめながらも,長い旅に出ようとして,自分の身体に重さや疲労を感ぜずに,祝福されて歩みだした」と書いています。
 私の一番幸福な時期は,この小説を読みふけり,小樽や塩谷,余市の町や海を思い描いていたこの高校1年のころだったかもしれません。

 小樽市では,毎年2月中旬に「小樽雪あかりの路」というイベントが開かれます。今年は2月8日から17日までのようです。2年前の2月下旬に,天狗山で小樽の町と海を見た後,北海道の知人と夜の小樽の街を歩きました。積もった雪に街の明りが輝いていました。

 しかし,この2週間後,大きな津波が三陸の町と海を襲いました。

城山公園から見た現在の大槌町の町と海(右手前は,神戸市から分灯された「希望の灯り」)

 2週間ほどしてから大槌町に住んでいる姉の様子を見に行ったところ,遠野から笛吹き峠を過ぎて鵜住居町に入ると,徐々に津波の被害があらわになりました。国道も鉄道も周辺の家々もめちゃくちゃになっていて,堤防自体も破壊されていました。以前は,堤防や町並みがあって海など見えなかったのですが,少し背を伸ばせば海が見えるようになってしまいました。
 大槌町からの帰りに,釜石の街を回ってみました。こちらも瓦礫だらけの街になっていました。高台に立って見ると,町と海が以前のようには見えました。ちょうど1か月前に北海道の知人と一緒に見た小樽の町のようでしたが,昔のはなやいだ人々の往来はありませんでした。

再び「海の見える町」を

 大槌町では,「海の見えるつい散歩したくるなるこだわりのある「美しい町」」を町の将来像として復興を計画しています。いずれの町も,小樽のように,にぎやかで活気のある町になってほしいと思います。

平成45年度1年7組5番 一作


岩手県立釜石商工高等学校

現在の釜石商工高等学校(平成21年4月に,釜石商業高校と釜石工業高校が統合された。現在も校舎をつなぐ階段がある。)

 ハム(アマチュア無線)の講習会は,大平(おおだいら)にある釜石工業高等学校(現在の釜石商工高等学校)で行われました。アマチュア無線技士の資格は,以前は仙台などの大都市で開催される国家試験を受験しなければならなかったのですが,このころから講習会を受けて修了試験に合格すれば資格が取れるようになりました。
 当時の工業高校の校舎は木造で,山の斜面に沿って階段状に建てられており,屋根つきの階段が渡り廊下の代わりになっていました。
 大平地区は,釜石湾の真ん中に少し突き出た「鎌崎」の高台にあり,ちっとも平らではありません。教員アパートなど住宅が斜面に建てられています。昔は,釜石村と平田村を隔てる村界の山で,今も交通の難所です。
 近年,この高台の上に展望台ができ,釜石の町や海が一望できます。

大平の展望台から見た市街地と釜石湾(手前は大平住宅団地)

鷲の巣崎(左)と尾崎半島に囲まれた釜石湾(右手前は鎌崎と釜石大観音)