一枚の繪

8月のある日曜日,母校の旧釜石市立釜石第二中学校のお別れ会がありました。別用があり参加できませんでしたが,冬の第一校舎取り壊しに続き,第二校舎も取り壊されることになり,学校のすべての校舎がなくなることになりました。

第二校舎は,中学校入学前に職員室などのあった木造校舎が焼失したため,入学後に建築工事が始まり,2年生の時に完成し,3年生になってクラスルームとして使用した懐かしい校舎でした。
南側の棟は教室棟で3年生の1組から3組が入り,わが3組は3階で,窓からエンクラエン山がよく見えました。
北側の棟は実習棟で,1階が理科室,2階が美術室,3階が音楽室でした。3階の音楽室からは,2年生の時に担任だった音楽の石川先生が弾くピアノの音がいつも流れて来たものでした。また,合唱団の練習でもよく使いました。2階の美術室は,所属していた美術クラブの部室だったので,よく出入りしていました。
このころ,放課後に親友と一緒に帰るため,彼のサッカー練習が終わるまで,絵を描いたり,合唱練習に加わったりして待っていたものでした。

解体の始まった第二校舎(手前3階がクラスルーム,左奧が実習棟)

解体の始まった第二校舎(手前3階がクラスルーム,左奧が実習棟)

校舎裏(体育館裏と実習棟(右):2階が美術室で3階が音楽室)

校舎裏(体育館裏と実習棟(右):2階が美術室で3階が音楽室)

校舎の裏には,教員住宅(アパート)がありました。当時のスケッチブックがまだ残っており,その中に校舎裏の教員住宅付近をスケッチした描きかけの1枚の絵があります(写真左の38-3とある建物が教員住宅。自動車は,当時流行っていた「スバル360」か)。
いつか続きを描こうと思っていましたが,どこで描いたのか忘れてしまいました。校舎裏の空き地に立って見ると,もう少し高い所から描いたようです。とすると,実習棟の2~3階か,屋上かも知れません。解体前に,確認したいところです。

二中裏の教員住宅付近のスケッチ

二中裏の教員住宅付近のスケッチ

最近の教員住宅付近

最近の教員住宅付近

その後のある日の昼時間,工事の休憩中に中を見せてもらいました。
御遺体の安置所になった体育館(合掌),予定表の黒板に閉校時の行事が書かれたままの職員室,落書きのある教室と巡り,3階のクラスルームでエンクラエン山を見て,実習棟に回ってみました。
3階が音楽室です。当時,音楽室にはグランドピアノがあり,授業時間には,ピアノの音が向かいのわが3組の教室にも流れてきていました。
校舎裏を見ると,スケッチより高い位置でした。
やはり,2階の美術室か。

合唱団の発表で立った体育館のステージ

合唱団の発表で立った体育館のステージ

二中祭のパネル画

二中祭のパネル画

職員室(3月18日(土)が閉校式)

職員室(3月18日(土)が閉校式)

ある教室の黒板(二中魂)

ある教室の黒板(二中魂)

3年3組の教室

3年3組の教室

3年3組の教室から見えるエンクラエン山

3年3組の教室から見えるエンクラエン山

3階の音楽室(壇上にピアノがあった)

3階の音楽室(壇上にピアノがあった)

黒板に校歌を書いた

黒板に校歌を書いた

2階美術室(ビーナスの石膏像がある)

2階美術室(ビーナスの石膏像がある)

窓の外は校舎裏

窓の外は校舎裏

スケッチは,2階美術室の窓辺から描いたようです。
時間がないので写真だけ撮りましたが,手前の木がじゃまでかんじんのところが隠れてしまいました。

美術室から見た教員住宅(木が邪魔!)

美術室から見た教員住宅(木が邪魔!)

しばらくして行って見ると,解体がだいぶ進んでいました。今はもう校舎はありません。
スケッチの続きは,描けなくなってしまいました。

校舎はもうありません(11月27日撮影)

校舎はもうありません(11月27日撮影)

浜辺の歌

昔のことぞ,しのばるる(浜辺の歌の思い出)

小学校から愛用のリコーダーで吹いてみました。

 この歌は,中学校3年生の夏の時期に,音楽の時間で学習しました。
 林古渓作詞,成田為三作曲で,日本歌唱の中で一番親しまれている歌です。
 ピアノ伴奏は,分散和音になっており,波の寄せ返しを表現しています。音楽室から流れてきた石川先生の演奏が懐かしい。
 当時は文語調の歌詞のため意味がよく分からなかったのですが,歳を重ねるにしたがって思い出も多くなり,この歌のすばらしさが分かるようになってきました。
[audio:http://sanriku.adm.iwate-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2013/09/f005d288d8e3ea79a58aa2f9423d0c66.mp3|titles=浜辺の歌|loop=yes]

浜辺の歌音楽館

 作曲家成田為三(1893(M26)-1945(S20))は,秋田県米内沢町(現在の北秋田市米内沢)出身で,東京音楽学校在学中にこの曲を作りました。
 米内沢は,秋田県の内陸部なのですが,作曲に当たり近くを流れる阿仁川のせせらぎをイメージしたとも言われています。
 阿仁川のほとりには,浜辺の歌音楽館があります。浜べの歌をピアノで自動演奏する成田為三に似たロボットがあります。

昔のひとぞ,しのばるる(根浜海岸の思い出)

白砂青松百選に入っていた浜でしたが,浜の北側は大きく地震で沈下し,浜がなくなってしまいました。

 中妻小学校の4年生から6年生まで同じ学級で,あるきっかけで親しくなり,その後高校3年生まで一緒に遊んだ無二の親友がいました。

 特に釜石第二中学校在学中は,放課後や休日には必ず一緒にいて,本屋のハシゴをしたり,上中島社宅の公園で遊んだり,山に入ったり,海に行ったり,絵を描いたりしていました。
 また,将棋や五目並べをしたり,光や重力について議論したり,文通したり,成績を競い合ったりもしていました。
 親友は,スポーツマンで新設のサッカー部に所属していました。逆に私は,体が小さく細かったためスポーツが嫌いで,絵や音楽が好きだったので美術クラブや合唱団に所属していました。

朝浜べをさまよえば…

 当時釜石では,昭和45年開催の岩手国体に合わせて道路や体育施設などが整備されてきました。国道45号の鳥谷坂(とやさか)トンネルも,国体開催前年の春先(中学2年生の春休み時期)に開通しました。親友と,未舗装で砂ぼこりとスモッグに煙るトンネルを自転車で走り抜け,両石の「恋の峠」も越え,鵜住居の根浜海岸や大槌まで行ってみたものでした。
 中学3年生の夏休みには,天気が良い日はほとんど毎日親友と一緒に,大平の市民プールや根浜海岸に泳ぎに行きました。おかげで,泳ぐことが好きになり,少しずつ体力が付いていきました。

 とても仲の良い二人でしたが,高校進学は別々になってしまいました。彼は釜石工業高等学校に,私は釜石南高等学校に進みました。
 高校生になってそれぞれ新しい友達ができたり,学校行事で忙しかったりして,普段会うことが少なくなり,たまに手紙をやり取りするぐらいになってしまいました。
 それでも夏休みになると,以前のように海に一緒に行きました。2年生の時はキャンプにも行きました(ブログ「春の海2-弁天島海岸の思い出」)

林の陰にレストハウスがありましたが,被災し撤去されました。

 高校3年生の夏休み,親友はアルバイトや学校の友達とのキャンプなどで忙しかったようでした。源太沢の上流にある親友の家に何度か誘いに行ったのですが,親友の母が申し訳なさそうに謝ってくれました。
 翌日,初めて一人で根浜海岸に出かけました。堤防の上を歩き,これまで一緒に来てくれた親友の姿を探す自分に,親友は私よりも早く大人になったのだ,自分はまだ子供なのだということを悟り,寂しさを感じました。
 この年の夏,一度だけ親友と根浜海岸に行くことができました。しかし,渚に立ち互いの進路を話し合ったただけで,昔のように砂で遊んではしゃいだり,沖まで泳いだりすることもなく,時間がたそがれてゆきました。この時,小学校のころから親友と一緒に見ていた幼い夢は,根浜海岸で作って遊んだ砂の城のようにはかなく消えていきました。
 親友とは翌年年賀状のやり取りをしただけで,高校卒業後は会うことはありませんでした。

 根浜海岸には,盆帰りした時などに必ず泳ぎに来ていました。そして,あの時のように堤防の上を歩き,親友の姿を探しているのでした。
 源太沢にあった親友の家は,いつしかなくなっていました。

猿の惑星

秋口に大橋近辺の空き地にえさを食べに来たニホンザルの一団,本文とは関係ありません。
(ニホンザルは「猿の惑星」には登場しません。)

釜石の映画館
 釜石には映画館がたくさんありました。
 記憶しているのは,町の方には,只越町の「第一劇場」,大町の「国際劇場」と「錦館」,錦館の隣に「シネマセンター」がありました。
 「錦館」は,現在ホテルサンルートの立っているところにあり,のちに市民文化会館になって成人式などが行われ,参加しました。
 古い住宅地図を見ると,小佐野町に「小佐野映画劇場」の名前があります。今はアパートが建っていますが,近くで井戸端会議をしていた年配の女性達に話を聞いたら,「文化劇場」と呼ばれ,テレビのない時代に夕方ニュース番組をやっていて,仕事帰りによく通ったと,嬉しそうに話してくれました。
 大橋にもあったようです。
 昭和40年代初めごろに中妻町の社宅跡地に「富士館」が建ちました。
 隣には5階建てのスーパーもでき,大変便利になりました。

 当時は本屋もたくさんあり,友人との遊びの一つは,本屋のハシゴでした。
 
釜石で見た映画
 小学校のころに怪獣ブームが来て,近所の子供達とゴジラやガメラのシリーズをよく見ました。キングコング,キングギドラ,モスラ,ミニラ,ギャオスなどとの対戦があり,ハラハラしたものでした。
 中学生になってからは,外国映画も見るようになり,「ミクロの決死圏」,「天地創造」,「恐竜100万年」,「007は二度死ぬ」など,SFものを好んで友人と見に行きました。
 また,学校の映画学習で見た,記録映画「東京オリンピック」,「ベン・ハー」,「アンクルトムの小屋」なども記憶にあります。
 「日本のいちばん長い日」も記憶にありますが,いつ見たか覚えていません。

映画「猿の惑星」の思い出
 猿の惑星は,1968年公開されたアメリカの映画です(中学2年のころですが,釜石での公開が同じ時期かどうかは,定かではありません。)。
 吹き替えではなく字幕でしたので,映像とスクリーン右端に書かれた文字を交互に見なければならないので,大変でした。
 ラスト近くになり,チンパンジーの科学者達と分かれた主人公が人間の女性を連れて浜辺を馬に乗って進んでいました。

映画のラストシーンに出てきたような浜

 鵜住居の根浜海岸や両石の鏡海岸のようだと思いながら映像を見ていると,とんがったものががけ上に現れ,突然主人公が何かを発したので字幕の方に目をやると,映像が変わってしまいました。字幕を読まないまま映像を見ると,主人公が砂をたたきながらまた何かを発したので,字幕を見ようとしたら,エンディングになってしまいました。
 映像も字幕も中途半端になってしまったので,一緒に行った友人に「最後なんて言ってた」と聞いてみましたが,よく分かりませんでした。

 数日後,本屋に「猿の惑星」の原作本があったので読んでみましたが,映画と原作はかなり異なっており,映画のラストに結びつくものは書いていませんでした。
 結局,ラストシーンの衝撃よりも,ラストシーンがよく分からなかったという衝撃がずーっと残ってしまいました。

 ちなみに,釜石で見た最後の映画は,昭和48年当時大ブームになっていた小松左京原作の「日本沈没」でした。
 今は,映画館は一つもなくなり,本屋も少なくなってしまいました。

カリアゲ

 小学生のころ,スポーツ刈りという髪型がはやり始めました。
 それまで坊主頭だった運動の得意な子のほとんどがスポーツ刈りになり,かっこよく見えました。真似をしてスポーツ刈りにしてもらおうと上中島町の床屋に行ったのですが,頼み方がわからず「前髪の長い坊主」のように言うと,できた頭は「角刈り」になっていました。髪がもとに伸びるまで,しばらく気に入らない髪型で過ごしました。
 ここ20年ほど馴染みの床屋で散髪をしていたのですが,2,3年前にその店が閉まってしまいました。それ以来,あちこちの床屋を渡り歩いていましたが,気に入った髪型にしてくれる店がありませんでした。カリアゲの上手な店が少なくなったのです。

住んでいたアパートのあった中妻町

 先日の夕方,昔住んでいた釜石の中妻町界隈を散策しました。
 この町は,製鐵所の社員アパートのあったところで,中学2年生の夏から卒業するまで住んでいました。
 今は,住んでいたアパートなど数棟が取り壊され,さまざまな商店が並んでいます。
 当時この辺に映画館がありましたが,名前を忘れてしまいました。

懐かしい中妻町の路地裏

 路地裏に入ってみると,中学生の時に散髪してもらった床屋が昔のまま残っていました。
 当時は,女性の店員が何人もいました。一度髪を短くしてもらいたくて,映画監督のように何度も「カット」「カット」と繰り返しましたが,店員に「これ以上カットすると,かっこ悪くなる。」と言われ,あきらめました。
 そんなことを思い出しながら,ちょうど髪も伸びていたので入ってみることにしました。

 店には,おしゃれな髪型をした小柄な初老の店主がおり,入口のソファーに腰掛け,テレビを見ていました。
 理容いすに座り,昔ながらの木製の鏡台や引き出しを懐かしく見ながら,「下の方はバリカンでカリアゲしてください。上の方も短めにお願いします。」といつものように注文し,「昔,近くに住んでいたのだけれども,映画館がありましたよね。何という名前でしたっけ。」と聞くと,店主は「○○館だよ。よく見に行ったね。」と答え,昔の話をし出しました。
 この店は,父親の店を継いだもので昔は店員がたくさんいたこと,父親は頑固な職人で似合わない髪型を注文するとよそへ行けと言っていたこと,髪型は長い髪にでなく短い方に合わせるものだなど,頑固さまで受け継いだみたいでした。
 しばらくして,出身校や年齢を聞かれ答えると,店主とは中学3年生の同級生で,彼はK君でした。この店が同級生の店だったとは知りませんでした。鼻にかかった声は,昔のまんまで,中学生の彼と話をしているような気分になってきました。尊敬していた担任の佐々木先生が早くに亡くなったこと,1回しかやらなかったクラス会,同じ班のI君や同級生のことなど,懐かしい話を聞かせてくれました。

津波被害のなかった中妻町は,空き地だったところが,今,住宅建築が盛んです。

 一通りカットが終わり,鏡を当てながら「どうですか。」と聞いてきたので,「いいですね。最近,カリアゲの上手な店が少なくなりました。」と言うと,「ここの角はもう少し切った方がいいですけどね。」と言ってきました。
 「じゃ,一番似合う髪型にしてください。」
 「ここもこうした方がいい。イメージが少し変わるけどいいですか。」
 「お願いします。ところで,映画館の名前は何でしたっけ。」
 「○○館だよ。」と言いながら,彼は,大海に出たサケの幼魚のように,生き生きとハサミをさばき始め,白粉をふって丁寧にカリアゲしてくれました。
 そして,ひげを剃り,髪を洗い,リキッドをたっぷり付けて,最後のセットをし,「どうですか。」とまた聞いてきました。「少し若返りましたか。」と聞き返すと,「若く見えますよ。」と言ってくれました。
 勘定を済ませ,お礼を言って店を出ると,もうすでに店じまいの時刻を過ぎ,辺りは暗くなっていました。
 (えーと,映画館の名前はなんだったっけ。)
 店に戻って聞き返すのも恥ずかしいのであきらめ,上手にカリアゲされたうなじをかき上げました。

釜石第2中学校1970卒業文集から
 彼との話の中に出てきたI君の作文です。

「希望」
 明るく素直で,やさしい心を,いつまでも
清らかな人生を,夢と希望を持って,力強く
真の道を。

春のうららの…part2

「春のうららの隅田川…」で始まる「花」は,滝廉太郎作曲の歌で,中学校3年生の音楽で習いました。
8分音符のテンポの良い2部合唱の歌で,授業では下の部を歌いました。ドよりも低いシやラの音があり,笛では練習できませんでした。

中学校校舎(左端3階が3組の教室,音楽室は裏側)

 釜石第二中学校は,入学前に焼失した第二校舎が2年生の時に新築されました。この校舎は,今までのマッチ箱型の校舎と異なり,モダンな形で,岬が複数あるリアス海岸のような構造になっていました。
3年生になってようやく新しい校舎の教室に入りました。3組は,校庭に面した西側の岬の3階で,裏側にある岬の3階が音楽室でした。音楽室で授業が始まると,2年生の時の担任の石川先生の弾くピアノの音が3組の教室にも流れてきたものでした。
 「花」の出だしのピアノの伴奏を聴くと,新しい教科書の匂い,大天場山での桜の写生,合唱団の練習,東京タワーや上野動物園を見た修学旅行などなど,当時の春が懐かしく思い出されます。

 

 

下の写真をクリックし,「花」の演奏をお楽しみください(伴奏はコンピュータの音です。イヤホンをするなど,音量に注意してください)。