海の見える町 その3「雪明りの路」

 今年の冬休みもすでに明け,大学入試センター試験も終わり,1月の末を迎えるころになりました。私の高校1年生の冬休みもあっという間に過ぎました。正月明けの1週間まるまるハムの講習会があったため,冬休みの後半はそれだけに費やされ,たくさん出された宿題は全部消化することができませんでした。

 伊藤整は,小樽高等商業学校を卒業した後,小樽市立中学校の英語教師になります。そこで教員生活を送りながら,汽車通学で知り合った少女との恋愛をもとにした詩集「雪明りの路」を自費出版します。そして,詩人として名声を得,たくさんの若い詩人と出会います。詩集に対して美文的賛辞をもらった高村光太郎や,「春と修羅」を出版した宮澤賢治のエピソードが小説「若い詩人の肖像」に書かれています。そして,猛勉強をして東京商科大学(現一橋大学)に合格し,1年後に小樽を離れます。伊藤整は,このころを自分の人生の一番幸福な時期だったと振り返り,「柔らかい光のさす春の草野を,まぶしさに眉をひそめながらも,長い旅に出ようとして,自分の身体に重さや疲労を感ぜずに,祝福されて歩みだした」と書いています。
 私の一番幸福な時期は,この小説を読みふけり,小樽や塩谷,余市の町や海を思い描いていたこの高校1年のころだったかもしれません。

 小樽市では,毎年2月中旬に「小樽雪あかりの路」というイベントが開かれます。今年は2月8日から17日までのようです。2年前の2月下旬に,天狗山で小樽の町と海を見た後,北海道の知人と夜の小樽の街を歩きました。積もった雪に街の明りが輝いていました。

 しかし,この2週間後,大きな津波が三陸の町と海を襲いました。

城山公園から見た現在の大槌町の町と海(右手前は,神戸市から分灯された「希望の灯り」)

 2週間ほどしてから大槌町に住んでいる姉の様子を見に行ったところ,遠野から笛吹き峠を過ぎて鵜住居町に入ると,徐々に津波の被害があらわになりました。国道も鉄道も周辺の家々もめちゃくちゃになっていて,堤防自体も破壊されていました。以前は,堤防や町並みがあって海など見えなかったのですが,少し背を伸ばせば海が見えるようになってしまいました。
 大槌町からの帰りに,釜石の街を回ってみました。こちらも瓦礫だらけの街になっていました。高台に立って見ると,町と海が以前のようには見えました。ちょうど1か月前に北海道の知人と一緒に見た小樽の町のようでしたが,昔のはなやいだ人々の往来はありませんでした。

再び「海の見える町」を

 大槌町では,「海の見えるつい散歩したくるなるこだわりのある「美しい町」」を町の将来像として復興を計画しています。いずれの町も,小樽のように,にぎやかで活気のある町になってほしいと思います。

平成45年度1年7組5番 一作


岩手県立釜石商工高等学校

現在の釜石商工高等学校(平成21年4月に,釜石商業高校と釜石工業高校が統合された。現在も校舎をつなぐ階段がある。)

 ハム(アマチュア無線)の講習会は,大平(おおだいら)にある釜石工業高等学校(現在の釜石商工高等学校)で行われました。アマチュア無線技士の資格は,以前は仙台などの大都市で開催される国家試験を受験しなければならなかったのですが,このころから講習会を受けて修了試験に合格すれば資格が取れるようになりました。
 当時の工業高校の校舎は木造で,山の斜面に沿って階段状に建てられており,屋根つきの階段が渡り廊下の代わりになっていました。
 大平地区は,釜石湾の真ん中に少し突き出た「鎌崎」の高台にあり,ちっとも平らではありません。教員アパートなど住宅が斜面に建てられています。昔は,釜石村と平田村を隔てる村界の山で,今も交通の難所です。
 近年,この高台の上に展望台ができ,釜石の町や海が一望できます。

大平の展望台から見た市街地と釜石湾(手前は大平住宅団地)

鷲の巣崎(左)と尾崎半島に囲まれた釜石湾(右手前は鎌崎と釜石大観音)

海の見える町 その2「雪の来るとき」

小説「若い詩人の肖像」の第2節「雪の来るとき」は,主人公伊藤整が汽車通学で知り会った少女とのロマンスや,誌や文学,「black」が何回も続けて出てくる外国人教師による英語の話などが書かれていて,面白く読み進みました。
蘭島は,少女の住む余市と主人公の住んでいる塩谷との間にあります。夏に知り合った二人は蘭島の海岸に並んで座り,遠く水平線に漂う汽船を眺めながら一時を過ごしました。しかし,冬の季節になってから,二人は待ち合わせる場所や一緒に歩く場所がなくなり,ほとんど分かれてしまった形になります。街はどこも雪に埋もれ,山も公園も,道路の外に立ち止まる場所がなくなりました。

JR松倉駅

JR松倉駅(風情は以前と変わらない)

当時の釜石南高等学校は,山田町や大槌町,鵜住居町などの沿岸部や,大橋,遠野などの内陸部から優秀な生徒が入学しており,汽車で通学する生徒もいました。山田線からの汽車は,南高生のために学校近くの松倉駅まで運行していました。普段は自転車通学だったのですが,雪の時期だけは小佐野駅からのたった一駅を,主人公を真似て汽車通学しました。私にとって,山田や大槌は,余市や塩谷でした。

その後,海の見える町「小樽」には出張のたびに合間を利用し何度か訪れましたが,小樽駅周辺を歩いただけでした。昨年2月下旬の出張の際に北海道の知人に依頼し,小樽の町を案内してもらうことにしました。小樽の町は,雪で輝く運河やガラス細工工場,オルゴール店などの見物客であふれ,にぎやかで活気がありました。

冬の小樽(天狗山展望台から)

冬の小樽(天狗山展望台から)

ロープウェーで登る天狗山の山頂展望台からは,案内してくれた知人のように優しく穏やかな海が眼下に広がりました。どれほどあこがれたであろう小樽の町と海でした。

 岩手県立釜石高等学校

現在の釜石高等学校

現在の釜石高等学校

 母校の岩手県立釜石南高等学校は,昭和24年4月に旧制高校3校の統合により設立された釜石高等学校が母体です。団塊の世代の生徒数の増加から昭和38年4月,釜石北高等学校の増設に伴い校名を「釜石南高等学校」に改称されました。その後の少子化で平成20年度に釜石北高等学校と統合され,校名がもとの「釜石高等学校」に戻りました。校歌や応援歌も,昭和24年時代のものが引き継がれています。
釜石高等学校ホームページ→http://www2.iwate-ed.jp/kas-h/

札幌ドーム展望台

札幌ドーム展望台

海の見える町

 「私が自分をもう子供でないと感じたのは,小樽市の,港を見下ろす山の中腹にある高等商業学校へ入ってからであった。」

海の見える町(教科書)

海の見える町(教科書と文庫本)

 昭和45年12月の釜石南高等学校1年生の現代国語の単元は,この文章から始まる伊藤整(いとうせい)の小説「若い詩人の肖像」の第1章「海の見える町」からの一節でした。
 伊藤整は,元東京工業大学教授で,「火の鳥」や「鳴海仙吉」などの小説や評論を書き,「チャタレー夫人の恋人」を翻訳するなど,当時の我が国で最も活躍している作家の一人であると教科書で紹介されていました。

 小説は,私(伊藤整(ひとし))が,小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に入学した時から始まり,学校の建物や行事の紹介,隣村塩谷からの汽車通でのできごと,上級生の「小林多喜二」にライバル心を燃やしながらも,ひっそりと目立たないように振る舞っている自分の内面を「新心理主義」の手法でつづっていました。
 教科書の最後のページには,学校の図書館の「窓からは,眼の下にひろがった町と海が見え,長い突堤に抱かれた水面には汽船がいつも5・6隻浮かんでいた」と書かれており,まるで「釜石」が舞台であるかのような錯覚を覚え,この先はどうなるのだろうかと,この小説に興味を持つようになりました。

 冬休みに入ってすぐに町の本屋を探し歩いてようやくこの小説の文庫本を手に入れ,宿題そっちのけで読みふけりました。当時,高等学校に入学して少年期から多感な思春期を迎え,自分がどう見られているか気になっていたのですが,周りの同級生が大人びた言動をしている中で,あえて勉強好きの内気な生徒,ウブさ,オクテという外の形を作る主人公に共感し,同じように,ひっそりと目立たぬように,あえて内気さを失わないよう行動するようになりました。そして,この小説におぼれていることを誰にも知られないようにしました。

 この小説の影響から,海の見える町「小樽」は,私にとってあこがれの地となり,いつかは訪れてみたいと思うようになったのでした。

釜石市立釜石第二中学校

旧釜石第二中学校

母校の釜石第二中学校(校庭内に釜石警察署の仮庁舎が建っている。右上に富士見台団地が見える。)

 母校の釜石第二中学校は,平成18年度に釜石第一中学校,釜石小佐野中学校と合併し釜石中学校となり,平成17年度末で廃校となりました。
 今は,嬉石町にあった旧釜石警察署が被災したため,校庭に仮庁舎が建っています。

 学校の東側に富士見台団地がありますが(写真の右上),中学校在学当時はちょうど造成中で,高台までの坂道が運動部のランニングコースになっていました。高台に上がると,遠くに釜石湾や製鐵所がよく見え,眼下には人通りの多いにぎやかで活気のある町が見えました。
 その後この高台には,しばらくゴルフ練習場が建っていましたが,いつの間にか住宅地になっていました。

富士見台団地からの釜石湾

富士見台団地からは今も釜石湾と製鐵所近辺が見える