三角山とおむすびコロリン

 釜石周辺の山々は,正面から見るとどれもが同じ三角形に見えます。
 これらの山々は,中生代・古生代の堆積層が海から押し出されて陸地にくっついた堅い岩(付加体)で出来ていて,水を貯めるほどの土がなく,雨が降ると一気に沢に集まり,川を下って海に流れ込みます。
 沢が水の力でV字形に削られ,山が三角形に残ったようです。

三角山と呼んでいた小山

 母校の中妻小学校(現双葉小学校)の近くに「三角山」と呼んでいた小さな山がありました。
 甲子川の向い側にある礼ヶ口(れいがぐち)の中腹で,当時はささやぶの山だったような気がします。
 現在は,サクラやツツジが植えられきれいな花を見せています。周辺は,禮口山日高寺の境内で,右奥に新しい本堂と庫裏があります。三角山の石碑を見ると昭和55年に整備されたようです。

 この三角山には,小学校6年生の今ごろ社宅の近所の子を連れてハイキングに来ました。
 6年生になると,それまでガキ大将だった上級生が中学生になり,社宅の遊び仲間では最年長になるので,年下の子の面倒を見なければなりません。
 各自おにぎりを作って持参することにしましたが,幼稚園の子も自分で作って持ってきました。

日高寺から新町を望む(中央が釜石地区合同庁舎)

 甲子川沿いの土手を歩き,幅1尺の板を2枚ほどを渡した程度の橋を渡り,礼ヶ口を上がると三角山です。
 頂上に登り,おにぎりを食べようとすると,幼稚園の子がおにぎりを落としてしまいました。
 急な山の斜面をみんなで探しましたが,見つからなかったので,「昔話の『おむすびコロリン』みたいだね。きっと,ネズミの穴に落ちたんだよ。」と言ってなだめながら,自分のおにぎりを分けてあげました。
礼ヶ口の男滝と女滝につづく)

記念樹

桜の苗が大きく育つころ/僕らはみんな大人になるんだ…

 昔,「木下恵介劇場」というシリーズもののテレビ番組があり,小学校6年生(昭和41~42年)のころには「記念樹」というドラマが放送されていました(1966年4月5日から1967年2月14日までとのこと)。主題歌(木下忠司作詞作曲)の出だしを時々思い出すことがありました。

舞台は,ゆえあって親と別れた子供たちをあずかる養護施設でした。保母の一人が結婚退職するときに一緒に記念樹を植えた子供たちが,大人になってまた施設を訪れるというストーリーです。ドラマの一話一話は覚えていませんが,問題を抱えて戻ってきたり,立派な大人になって恩返しに帰ってきたりと,毎回感動する内容でした。記念樹を植える回顧シーンになると,「冷たい風が僕らを試すのさ…」と歌う子供たちの合唱が流れてきました。子供たちが,少ない小遣いを出し合って買った苗木です。
今思えば,子供たちを桜の苗木にたとえ,逆境にもめげることなく,みんなで励ましあって,夢の実現という立派な花を咲かせてほしいという思いを託した歌のようです。

…そこまで春が/来てるじゃないか手を延べて
中妻小学校昭和41年度卒業6年4組の記念樹

昭和41年の中妻小学校

このドラマの影響があったかどうかわかりませんが,小学校卒業の間際に,担任の先生がクラスの生徒を何人か連れて,校舎正面玄関脇の植込みに木の苗を植えました。茂みには古い「二宮尊徳像」が以前から放置されてありました。
しかし,昭和51年から木造校舎がコンクリート校舎に改築され,さらに,学校統廃合により双葉小学校となって校舎が再度新築されたため,僕らの植えた記念樹がどうなったか分からなくなりました。

現在の釜石市立双葉小学校

双葉小学校(円内は昭和16年に建立されたという二宮尊徳像)

釜石市立双葉小学校は,釜石市立の旧八雲小学校と旧中妻小学校が合併して平成14年4月に設置されました。「二宮尊徳像」は,台座に備え付けられて校庭東側に移設されています。
八雲小学校は,昭和10年に私立釜石製鐵所尋常小学校から公立に移管され,釜石町立釜石第三尋常小学校となって,後に八雲小学校となったものです。現在は,釜石市立釜石中学校の校舎が建っています。
中妻小学校は,昭和12年から始まった上中島町への製鐵所社宅の建設に伴って昭和14年に中妻尋常高等小学校として設置されました。児童数は,昭和17年に最大2200人ほど,ベビーブームの昭和34年には1972人に上りました。しかし,昭和39年から始まった製鐵所の合理化に伴う東海製鐵所転勤により児童数が減少し,昭和41年は1062名,翌年は800人ほどになりました。

中妻小学校校歌

製鐵所社員の転勤は昭和44年まで行われ,1724名が名古屋などに転出していきました。釜石線に面した中妻小学校の校門前で,汽車に乗った同級生を何人も見送りました。窓から体を乗り出して手を振る子もいましたが,中には顔も手も窓から出すことなくただ汽車だけが通り過ぎたこともありました。

 

(参考:釜石市立中妻小学校五十周年記念誌,鉄と共に百年)

校舎お別れ会

「鬱蒼とした山の麓に,黒ずんだコンクリート造りの学校が建っていた。…」

映画化された「遺体(石井光太著,新潮社発行)」に出てくる学校は,震災当初「遺体安置所」となったわが母校の旧釜石市立釜石第二中学校です(当ブログ【映画】『遺体 明日への十日間』参照)。

2011年6月(安置所閉鎖後)の旧第二中学校

戦後の新学制により1947(昭和22)年に創設され,多くの卒業生を輩出しましたが,2006(平成18)年4月に,釜石第一中学校,小佐野中学校とともに釜石中学校に統合されたことから,2005(平成17)年度末で廃校になっていました。

校舎は,設立時は旧制八雲国民学校校舎(現在の釜石中学校の場所か)を使用しました。当初の学区は,中妻小学校と八雲小学校の学区でしたが,釜石製鐵所の社宅のある学区だったため,すぐに生徒数が1000人を超え,1950(昭和25)年に,校舎を旧釜石高等女学校の校舎(現在地)に移転し,第二校舎(現在の第一校舎)を増築しました(この第二校舎は,このあと2回も増築されています。)。
そして,1962(昭和37)年に,最大生徒数1484名,卒業生数520名を抱える県内でも2,3番目に入るマンモス中学校になりました。そのため,1962(昭和37)年4月から,中妻小学校の卒業生を,上中島町の1,2丁目と3,4丁目を境にして,西は小佐野中学校に,東は第二中学校に学区分けしました。そのため,私たちのころの中妻小学校卒業生は,第二中学校と小佐野中学校に離ればなれに進学することになってしまいました(この措置は,中学校3年生になった1969(昭和44)年4月から元に戻したようです。)。その後,少子化と製鐵所の合理化の影響で生徒数が減少し,創立50周年の1998(平成10)年度には,全生徒数が180人になり,2005(平成17)年度末に廃校となりました。
しかし,最後に重要な役目を担った栄誉ある校舎です。

お別れ会の様子

1月13日(日曜日)に,廃校になった旧第一中学校,旧第二中学校,旧白浜小学校の校舎が解体されることになり,校舎お別れ会(旧校舎の見学,写真撮影など)が開催されるとのことでしたので,母校の二中に行ってみました。

集まった元先生と生徒達

お別れ会には,旧生徒と旧教員の合わせて15人ほどが参加しました。卒業したとはいえ,1つ上でも先輩はやはり先輩で,会話の隅々に上下関係が表れました。旧教員も校舎を懐かしみながら見学し,学校の歩みなどを教えてくれました。
案内役の市職員の話では,今回解体されるのは,安置所となった体育館や職員室などのあった第二校舎ではなく,市道側の「第一校舎」で,市道が狭いため,体育館や第二校舎に先立ち早めに解体するということです。お別れ会に予想以上の参加があり,喜んでいました。

二中校舎の思い出

何よりも,入学する前に学校が火災に遭い,職員室のあった校舎や講堂が焼失していたことです。
そのため,入学式は講堂では行われなかったのですが,どこで行われたか記憶にありません(校庭だったか,出身の中妻小学校だったかも知れません。)。ただ,入学式後の対面式は,卒業アルバムを見ると,校庭で行われていました。今回取り壊される第一校舎と校庭西側の木造校舎は,延焼をまぬがれて残っていました。

解体される第一校舎

入学後,西側の木造校舎に1年生(全6組)が入りました。体育館もなく,職員室などはプレハブ小屋(だったような),給食は牛乳1本だけで,弁当を持参するか近くの店でパンを買うかでした。
夏から新校舎の建築工事が始まり,校庭は工事事務所が設置されて使えなくなり,体育の授業や運動部の練習は学校の手前にある「昭和園グラウンド」を使ったり,両脇の山道のランニング,柔道部は第一校舎屋上に畳を敷いて稽古していました。
特に不自由した記憶はありませんが,今思えば,先生方は,火事の始末や卒業式,入学式の挙行,授業の運営など,苦労があったのではないでしょうか。仰げば尊し 我が師の恩です。

2年生の時の教室(柔道室になっていた)

2年生になって新しい校舎が完成し,職員室や3年生が新校舎に入り,体育館も新しくなりました。1,2年生は,第一校舎でした。1年生の時に使っていた西側木造校舎は間もなく取り壊されました。教室は,第一校舎の2階南側で,校門からすぐ見えるところにあり,窓から中妻町やエンクラエン山がよく見える教室でした。マンモス中学の教室だけあって60人くらい入れる広さです。
校舎や設備が新しくなったこともあり,新しいクラブが作られ,その部長をする羽目になりましたが,顧問の期待どおりに動くことができず,苦しい毎日でした。部長はつらいものです。

3年生になってようやく新校舎に入りました。3年4組は,3階左端で,反対側に音楽室があり,合唱団の練習でよく使いました。
卒業式は,この体育館で行われ,校歌と早春賦を歌いました。

昭和45年卒業アルバム(校舎全景と校歌)

校歌楽譜(うる覚えで作成)

市職員の話

お別れ会の案内を担当した市職員は,高等学校の同級生でした。40年ぶりに再会しましたが,元気なところは変わっていませんでした。
お別れ会が終わって上中島町の食堂にいると,彼が入ってきました。いつもここのラーメンを食べるという話から,しだいに震災後,遺体運びをしたという話になりました。「遺体」に書かれているのと同じ内容でした。その本の中に「市の職員」と幾度も出てきますが,彼はその一員でした。