一作 について

釜石市出身です。40年ぶりに釜石市民になりました。

環境整備の日

みんなそろって環境整備

みんなそろって環境整備

 本日(10月4日金曜日)は釜石サテライトの環境整備の日です。晴天の下,みんなで草取りを行いました。

 岩手大学では,ISO14001(環境マネジメントシステム)の認証を取得し,環境保全・再生に向けた教育・研究を積極的に推進し,持続可能な社会の実現に貢献することを基本理念に掲げています。その一環として,緑豊かなキャンパスづくりに向け,構内環境整備を全学的に取組むこととし,定期的に教職員や学生が一緒になって大学キャンパス及び周辺道路の清掃や草取り,落ち葉拾い等を行っています。

 釜石サテライトにおいても,この基本理念に基づき,上田キャンパス同様に定期的に環境整備を行っています。
 
 釜石サテライトは,今までの職員に加え,三陸水産研究センターの特任教授や特任研究員,東京海洋大学の特任教授や研究員,卒論の研究に来た学生,また,「いわて三陸復興のかけ橋事業」の委託を受けた助けあいジャパンのコーディネーターやプロジェクト職員など,住人が増えてきました。
 草刈り機は助けあいジャパンが手配し,ものづくり部門サテライト(釜石大槌地域産業育成センター内)の職員も手伝ってくれたので,広い釜石キャンパスはあっという間にきれいになりました。

 こんな日は,夕空もきれいになりました。

きれいになりました

きれいになりました

今日の夕焼け

今日の夕焼け

岩手大学の「環境配慮への取組」のページhttp://www.iwate-u.ac.jp/unei/kankyo.shtml

岩手大学環境方針(抄)
<基本理念>

  •   岩手大学は、地球環境の保全・再生が21世紀の最重要課題の1つであると認識し、環境意識の高い人材の育成をはじめ、環境保全・再生に向けた教育・研究を積極的に推進し、持続可能な社会の実現に貢献します。
  •  またその一環として、岩手大学内の活動のすべてにおいて、大学・附属学校構成員及び常駐する大学関係者が一致協力して環境に配慮し、大学の社会的責任として環境負荷の軽減と環境汚染の予防やキャンパス環境の改善に努めます。

モシリュウ発見物語(‘jjj’)

白亜紀の化石が発見される地層(宮古層群)

白亜紀の化石が発見される地層(宮古層群)の現れている茂師海岸

1978(昭和53)年の夏,岩泉町茂師(もし)の道路脇の崖上から恐竜の化石が発見されました。日本で初めての発見でした。

先日,出張の帰りに寄った国立科学博物館で,たまたま「研究者によるディスカバリートーク」で『モシリュウ発見物語』の回があり,発見者本人の地学研究部加瀬友喜博士がその時の様子を語ってくれました。

当時は,恐竜が活躍していた中生代は日本は海の下で列島も形成されておらず,恐竜化石が出てくることなど無いことが定説となっていました。戦前,日本領だった樺太で恐竜化石が出土し,「ニッポノサウルス サハリネシス」と学名が付けられていますが,今はロシア出土のものとなっています。その後,北海道などで恐竜化石に似たものが出土していますが,ほとんどが誤認でした。

現地は,「宮古層群」と呼ばれる約1億年前(白亜紀前期)の地層の出現している所で,暖かい海の中に生息していたサンゴやアンモナイトなどの化石が出ていました。沖に10度ほど傾いた保存の良い地層で,1億年前の津波の痕もあります。
当時,ここで巻き貝の化石の調査研究をしていました。その日,民宿に帰る途中の道の崖の上に大きな動物の化石のようなものを見つけました。化石がぼろぼろになっていたので,ボンドをいっぱい買い集めて固め,なんとか採集しました。骨の化石は,なめてみると舌にくっつくのですぐに分かりました。

2年後に中国恐竜展があり,展示されていたマメンキサウルスに似ていたことから,騒がしくなりました。そして,各地で恐竜の化石が発見されるようになりました。今盛んに発見されているのは,福井や兵庫,和歌山,熊本周辺などです。

加瀬博士は,恐竜化石の発見される確率(D)は,方程式D=pNAで導き出されると言っていました(pは発掘に携わる人数。ほかの変数は忘れてしまいました。)。
すなわち,pが大きくなればなるほど確率が高くなるということで,福井などでは多くの人が発掘に携わっていますが,モシリュウの発見された岩手県には発掘に携わる人が少ない。琥珀で有名な久慈地方にも白亜紀後期の地層(久慈層群)があり,もっと多く人が携わればたくさん発見されるでしょうと,熱く語っていました。

奇しくも,あまちゃん最終回で,水口君と小学生が恐竜の化石を発見(‘jjj’)し,新聞第1面に掲載されるというオチがありました(実話に基づく話ですが)。
第二の水口君がたくさん現れることを期待します(師匠の勉さんが増えると,眠れなくなるかな)。

モシリュウ発見場所

モシリュウ発見場所

がけ上の表示板

崖上の表示板

モシリュウ発見の解説板

モシリュウ発見の解説板

熊の鼻(発見場所近辺の熊の鼻展望台より)

熊の鼻と小本港(熊の鼻展望台より)

国立科学博物館http://www.kahaku.go.jp/index.php
国立科学博物館ホットニュース(2007.12.1)「恐竜化石の発見相次ぐ」→http://www.kahaku.go.jp/userguide/hotnews/theme.php?id=0001217896658956&p=2
平成25年9月24日三陸が日本ジオパークに認定されました!!
三陸ジオパーク推進協議会→http://sanriku-geo.com/

2013.9.11の釜石サテライト

東日本大震災行方不明者集中捜索開始式

東日本大震災行方不明者集中捜索開始式

 2年6か月が過ぎました。
 釜石サテライトでは,釜石警察署による東日本大震災行方不明者集中捜索の開始式が行われました。
 内陸部から派遣された応援部隊を含め,総勢80人ほどが捜索に当たります。
 岩手県全体で約1150人,釜石市では150名ほど,大槌町では430名もの方の行方が未だに不明になっています。

 どうか,1日も早く家族の元に帰られますよう祈念します。

 

釜石サテライトの朝日

釜石サテライトの朝日

地底湖の滝-滝観洞

住田町五葉地区の案内板

住田町五葉地区の案内板

 住田町上有住に滝観洞があります。
 住田町は,釜石市の西南に位置しています。上有住(かみありす)には,JR釜石線の足ヶ瀬と陸中大橋の間にある「上有住駅」,仙人峠道路の「滝観洞インター」があり,滝観洞にはこれらから行くことができます。
 滝観洞は,明治初期から岩の間から風が吹き出している「風吹き穴」として知られており,大正末に地元の青年達が探検し,奥に滝があることが発見され,昭和41年に「滝観洞」と名付けられました。

天の岩戸の滝

天の岩戸の滝


 入口から900メートル(約40分)ほどの所に日本一と言われる高さ29メートルから落ちる滝「天の岩戸の滝」がありました。
 少し手前にも「小滝(女滝)」とよばれる小さな滝もあります。
 地底湖に落ちる水しぶきが激しく,シャッターを押すと小さな水滴が画面いっぱいに写ってしまいました。

 洞内の通路は狭くなったり低くなったりして頭を天井にぶつけることがあり,ヘルメットは必需品ですが,観光センターで長靴とヤッケの3点セットで一緒に貸してくれます。
 滝観洞は,古生代の石灰岩でできていますが,鍾乳洞自体はできたばかりで若いため石筍や鍾乳石などはあまりありません。
 ところどころにウミユリの化石がみられます。また,洞穴サンゴ(サンゴのような突起状の鍾乳石),スコラプ(地下水流によって削られた壁や床,天井にできたうろこ状のくぼみ),ポットホール(天井からの水滴が長い年月をかけて床に作った丸いくぼみ),ノッチ(テーブル状になった水が流れたあとの痕跡)など,水の造形が見どころです。
 近くにある白蓮洞は,さらに古い時代に形成されたもので,鍾乳石や石筍などが見られます。

気仙川に架かる風恋(かざこい)橋

気仙川に架かる風恋(かざこい)橋

ウミユリの化石

ウミユリの化石

洞穴サンゴ(サンゴ状の鍾乳石)

洞穴サンゴ(サンゴ状の鍾乳石)

スコラプ(うろこ状のくぼみ)

スコラプ(うろこ状のくぼみ)

ポットホール(水滴が作った丸いくぼみ)

ポットホール(水滴が作った丸いくぼみ)

水の流れ出できたテーブル状のノッチ

水の流れでできたテーブル状のノッチ

浜辺の歌

昔のことぞ,しのばるる(浜辺の歌の思い出)

小学校から愛用のリコーダーで吹いてみました。

 この歌は,中学校3年生の夏の時期に,音楽の時間で学習しました。
 林古渓作詞,成田為三作曲で,日本歌唱の中で一番親しまれている歌です。
 ピアノ伴奏は,分散和音になっており,波の寄せ返しを表現しています。音楽室から流れてきた石川先生の演奏が懐かしい。
 当時は文語調の歌詞のため意味がよく分からなかったのですが,歳を重ねるにしたがって思い出も多くなり,この歌のすばらしさが分かるようになってきました。
[audio:http://sanriku.adm.iwate-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2013/09/f005d288d8e3ea79a58aa2f9423d0c66.mp3|titles=浜辺の歌|loop=yes]

浜辺の歌音楽館

 作曲家成田為三(1893(M26)-1945(S20))は,秋田県米内沢町(現在の北秋田市米内沢)出身で,東京音楽学校在学中にこの曲を作りました。
 米内沢は,秋田県の内陸部なのですが,作曲に当たり近くを流れる阿仁川のせせらぎをイメージしたとも言われています。
 阿仁川のほとりには,浜辺の歌音楽館があります。浜べの歌をピアノで自動演奏する成田為三に似たロボットがあります。

昔のひとぞ,しのばるる(根浜海岸の思い出)

白砂青松百選に入っていた浜でしたが,浜の北側は大きく地震で沈下し,浜がなくなってしまいました。

 中妻小学校の4年生から6年生まで同じ学級で,あるきっかけで親しくなり,その後高校3年生まで一緒に遊んだ無二の親友がいました。

 特に釜石第二中学校在学中は,放課後や休日には必ず一緒にいて,本屋のハシゴをしたり,上中島社宅の公園で遊んだり,山に入ったり,海に行ったり,絵を描いたりしていました。
 また,将棋や五目並べをしたり,光や重力について議論したり,文通したり,成績を競い合ったりもしていました。
 親友は,スポーツマンで新設のサッカー部に所属していました。逆に私は,体が小さく細かったためスポーツが嫌いで,絵や音楽が好きだったので美術クラブや合唱団に所属していました。

朝浜べをさまよえば…

 当時釜石では,昭和45年開催の岩手国体に合わせて道路や体育施設などが整備されてきました。国道45号の鳥谷坂(とやさか)トンネルも,国体開催前年の春先(中学2年生の春休み時期)に開通しました。親友と,未舗装で砂ぼこりとスモッグに煙るトンネルを自転車で走り抜け,両石の「恋の峠」も越え,鵜住居の根浜海岸や大槌まで行ってみたものでした。
 中学3年生の夏休みには,天気が良い日はほとんど毎日親友と一緒に,大平の市民プールや根浜海岸に泳ぎに行きました。おかげで,泳ぐことが好きになり,少しずつ体力が付いていきました。

 とても仲の良い二人でしたが,高校進学は別々になってしまいました。彼は釜石工業高等学校に,私は釜石南高等学校に進みました。
 高校生になってそれぞれ新しい友達ができたり,学校行事で忙しかったりして,普段会うことが少なくなり,たまに手紙をやり取りするぐらいになってしまいました。
 それでも夏休みになると,以前のように海に一緒に行きました。2年生の時はキャンプにも行きました(ブログ「春の海2-弁天島海岸の思い出」)

林の陰にレストハウスがありましたが,被災し撤去されました。

 高校3年生の夏休み,親友はアルバイトや学校の友達とのキャンプなどで忙しかったようでした。源太沢の上流にある親友の家に何度か誘いに行ったのですが,親友の母が申し訳なさそうに謝ってくれました。
 翌日,初めて一人で根浜海岸に出かけました。堤防の上を歩き,これまで一緒に来てくれた親友の姿を探す自分に,親友は私よりも早く大人になったのだ,自分はまだ子供なのだということを悟り,寂しさを感じました。
 この年の夏,一度だけ親友と根浜海岸に行くことができました。しかし,渚に立ち互いの進路を話し合ったただけで,昔のように砂で遊んではしゃいだり,沖まで泳いだりすることもなく,時間がたそがれてゆきました。この時,小学校のころから親友と一緒に見ていた幼い夢は,根浜海岸で作って遊んだ砂の城のようにはかなく消えていきました。
 親友とは翌年年賀状のやり取りをしただけで,高校卒業後は会うことはありませんでした。

 根浜海岸には,盆帰りした時などに必ず泳ぎに来ていました。そして,あの時のように堤防の上を歩き,親友の姿を探しているのでした。
 源太沢にあった親友の家は,いつしかなくなっていました。